誰も見てません

Nobody cares

ニヒリズムを見つけて

そのときの自分の年齢や状況、まさにそのときに読むべき本、出会っておいて良かったと感じる本というのがあるから、読書は奥深い。たまに、特に期待せずに読み始めても、読み終わると、これはまさにそれだった!今の自分に必要だった!と感動することがある。読書の醍醐味だと思う。

今月、そんな本に出会えた。私は以前から、この世界に意味のあるものなんてないと考えていて、この考え方はなんていう思想なんだろうと興味があった。最近、これはどうやらニヒリズムというらしいと、言葉を知ったけれど、浅い調べではどうもニヒリズムというと私の考え方よりネガティブな捉え方のようで、まだ模索中だ。

まあそれはそれとして、別の話で、少年犯罪とかに興味があってそういう本をたまに図書館で借りているのだけど、その辺の分類のある本を借りた。そうしたら、事件の経緯や犯人の分析よりも、今の日本の社会に存在する優生思想とかニヒリズムとかについてわかりやすく書かれていて、とてもすんなりと受け入れられて、自分の中だけで感じていたことをきちんと言葉でまとめてもらったような、共有できたような、気持ちの良さを感じられた。

初めて、手元において、マーカーをひいておきたい(ひく箇所はたくさんある)とおもった本だった。

一番気持ちのよかった部分の抜粋を少しだけ。力をくれた1冊。今年の1冊。

 

「相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム
 立岩真也 杉田俊介  青土社 

自分が特別に不運だとも思わないし、不幸であると思えない。しかし、根本的に満たされない。
だからこそ、生活保護受給者や障害者、シングルマザー、在日コリアンなどに対して、内なる不満の解消先が向けられていく。
この漠然とした不安や不満は、マジョリティである自分たちが実は割りを喰っているからだ。
事実を無視して、ネットで偏ったデータばかりを収集して、そんなふうに思い込みたがってしまう。
この自分は役立たずであり、生きるに値しないのではないか。
そんな漠然とした不安が募れば募るほど、自分より過酷な立場に置かれた人々への攻撃や憎悪が募っていく。
役に立つか立たないか、という物差しをもしも使うならば、誰の役にも立っていない人生はある。
他人に迷惑をかけ続けて終わっていく人生もある。それはある。そう言わざるをえない。
けれども、役に立たなくても、別に構わない。あるいは、その必要がない。
社会や国や他人のために役に立たなくても、あるいは誰かに負担や迷惑をかけていても、生きていることはいいことである。
なぜなら、生きることは、比較や線引きの対象ではなく、そのままでよいことだから。
そうとしか、言えないことだから。

「優秀な人間や健常者は生きる意味があるが、障害者は無意味だ(役立つ障害者だけが生きる意味がある)」
という優生的な価値観は根本的なところで間違っている、おかしい、というだけでは足りていない。
むしろ、「障害者だろうが健常者だろうが、優れた人間であろうが何だろうが、
人間の生には平等に意味がない(生存という事実は、端的に非意味でしかない)」と言わねばならない。

僕らはむしろ、誰にとっても平等な、対等な、そうした圧倒的な非意味=ノンセンスこそ、耐えねばならないのではなかったか。

生存という事実には、そもそも意味も無意味もない、ということ。
この単純な、圧倒的な、非人間的な事実。

 

相模原障害者殺傷事件 ―優生思想とヘイトクライム―

相模原障害者殺傷事件 ―優生思想とヘイトクライム―